AOZORAの仲間達 第2章 ~誕生~
今日から第2章、AOZORAの誕生について、そこに関わった人たちとのエピソードを
少しづつお話していきたいと思います。
広尾日赤医療センター ここに定期的な検診に来るようになってもう5年になる。
今では庭にあった大きな桜の木達は無くなり、その場所には新しい病棟が出来ようとしている。
古い入院病棟5階の角部屋、当時はあそこの1800×900の大きさの窓から空を見つめていた。
あの窓から見えた青空を、私は今もずっと追いかけているのだと思う。
入院をしている時に、私を支えてくれたのはこの病院の看護師達だった。
絶望の淵に立たされた私を支えてくれていた。
私は今でもこの看護師たち12人の名前をフルネームで言うことができる。
それだけ、ここでの42日間は私の人生観を変える大切な時間だった。
退院をして、自分の生きている意味をずっと考える毎日。
一日、一時間、今この瞬間を何に使えば、自分が生かされている価値があるのか?
あることをきっかけに、少女を救うため写真の個展を開いた。
何かの第一歩になればいい。
当時、写真の事を何も知らなかった私は、個展をやるなら少しは写真について勉強をして
おかなければと思い、写真学校に通っていた。
何人かのクラスメイトに個展のチラシを配った。
「すごいね、行くよ」
だれもそう言ってくれたが、当日写真学校のクラスメイトを見ることはなかった。
そして、たった一人写真展はできることも限られていた。
その時、ひとりの女性がギャラリーに入ってきた。
驚いた事に、写真学校のクラスメイトだった。
彼女はとても嬉しそうに私の撮った写真を見てくれていた。
「ねえ、この写真売ってないの?欲しいな。家を建てたばかりで何もないから写真飾りたいんだ」
驚いた。私の撮った写真を欲しいと言ってくれる人が現れるなど予想もしていなかったからだ。
「私も写真展やりたいな・・・」
「一緒にやろうよ」
自然と出たこの言葉、これがなければAOZORAはきっと誕生していなかったと思う。
これがAOZORAの起源になる。
・・・偶然にも彼女の職業は、看護師だった。
それから彼女は、AOZORAで新しいチャレンジがあれば、たとえ産休で実家の富山にいても
往復8時間をかけて仙台まで駆けつけ・・・
大阪遠征があるというと、昼間救急で働いて疲れているのに、夜中に車で駆けつけ・・・
NYで私がピンチに立たされていれば、応援隊長として駆けつけ・・・
看護協会とのコラボブースをやるとなれば、自分の体験をもとに看護手記を書いてくれ・・・
とにかく転換期には駆けつけるイメージがあって、いつも私の大きな支えになってくれている。
そして、あのスマイルパワーはAOZORAのひかりみたいなものだろう。
不思議なことに力が湧いてくる。
彼女は一年前、旦那さんの仕事の関係で中東に飛び立った。
なので、今は中東・ヨーロッパ隊長に任命してあるが・・・そちらの進展はまだ無さそうだ。
でも、慣れない海外生活を送りながらも、いつもAOZORAのことを気にかけ、応援してくれている。
そんな彼女に心から感謝を伝えたい。
ありがとう Tommy
AOZORAはこれからどんどんチャレンジをしていく
だから、これからも彼女にはパワーを貸してもらいたいと思う。
さあ、またこれからだ!空高くJUMPしよう!
